kwsktr's study log

kwsktr のおべんきょログ

日曜日は爺ちゃんの一周忌 …… アホなりに死について考える

ボクは常日頃からある程度の年齢を重ねた老人は生きていても意味がないと思ってる。
老人の定義があいまいだけど、自宅で要介護だとか、通院が日課で健康を損ねているとか、貧乏で無趣味で年金のみで生活しているとか、そういう老人はいらないと思ってます。

だからといって、彼らに「おまえら、いらねーから」とかは言わない。それは余りにも失礼だ。彼らが戦後復興に心力を注ぎ、日本を築いてきた事実には、ボクは敬意を払ってる。それでも老人はいらないと思うのは、去り際は美しくあって欲しいという想いだけだ。
だらだら延命しても寝たきりで動けないなら、それは無駄に生きているだけのこと。

ボクが仮に要介護状態に陥ったら、必ず殺してもらう。もしくは死ぬつもりだ。癌などの死亡率の高い病気になった場合、ボクは延命もしないことも決めている。早期発見ならば治療はするだろうが、寿命は受け入れたいとおもう。
ま、ソレはソレとして。


ウチの父方の爺ちゃんも延命せずに病院で亡くなった。
いろいろ身体が弱って、病気が重なり、最終的には肺炎で亡くなった。
結構、好き勝手に生きて、婆ちゃんとか困ったりとかしてたみたいだけど、ボクにとっては不器用だけど優しくて孫思いのじいちゃんだった。

それに、爺ちゃんは、本当に勤勉で、会社を休むなんてことはめったにしなかったらしい。ボクとは偉い違いだ。ボクは雨降ったら休むこともあるというのに。

んで、まあ、亡くなった。
だけど、別に悲しいとかはあまり考えなかった。

お通夜は泣かなかった。それどころじゃなかった。長時間の正座で足が痺れてしまい、焼香するときに3回も遺影の前で派手に転んだからだ。
みんな、通夜だというのに立てずに慌てるボクを見て笑ってくれた。

でも、葬式の時は泣きまくった。当日は泣くまいと堪えていたけど、ボクの父ちゃんが棺桶に花を入れるときに、止まったのをボクは見た。花を入れようとした手が止まって動けなくなっていたのだ。思わずボクは後ろから、父ちゃんの肩を抱いたら、父ちゃんがマジ泣きして……ボクも釣られて泣いた。号泣した。

だけど、悲しいかったのはそんな父ちゃんを見たからであって。爺ちゃんが亡くなった悲しみではないと思ってる。
わからないけど。


たいていの日本人は死んだら、焼かれて、壺に入れられて墓に入る。
焼かれた時点ですでに灰とぱっさぱさの骨になってるから、肉体を伴って復活することはない。
霊なんてものもないし、輪廻転生なんてのもあるわけがない。天国も地獄もない。あの世もない。
ご冥福とかいう言葉はホントにアホらしい。死ねば終わり。死んだらセックスできないし、音楽もきけないし、チョコレートも食べれない。


ただ、死んでもすぐに終わりなのは肉体だけであって、もう少しの間は生きている状態が続いているとも思っている。
ボクにとっての「死」とは、kwsktrの中の人を知る人がいなくなった時が、初めて完全な死だと思っているのです。

んで、この度の1周忌ということで爺ちゃんを思い出したわけですが、基本的に爺ちゃんのことは忘れているわけです。
こうしてだんだん爺ちゃんの記憶が薄れていき、いずれ爺ちゃんがこの世界にいたというのがぼやけてくるわけで。それこそが本当の「死」であると。

だから、まあ人が死んでもあんまり悲しくない。ボクの中で故人の記憶がある限り、まだ存在があるわけだから。

2030年とかになったらわからんけどもね。ボクの記憶・記録そのものを保存できるコンピュータとかできちゃうかも知れないし。


深夜にこんなことを書いている理由はただ感傷的になっているだけじゃなくて。

  
一週間かけて『神は沈黙せず』を読み終えたから。500ページ程度なのに……読むスピード落ちたなあ。時間が無いから仕方ないか。

と学会会長の山本弘らしい作品になっているので、彼の趣味に合う人だったらニヤニヤしっぱなしだと思います。ボクのように。
相変わらず面白い作品ですが、どうだろう。もやもやしてしまう。明後日の日曜は一周忌が満月だからかな? 月を見上げてみようっと。

それにしても、気になっているのが大和田先生のフロッピーの中身。一体何が書いてあるのでしょうか。霊はいない! って書いてあるのかな?w